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宵月(よいづき/よひづき)は、日本海軍の駆逐艦。秋月型駆逐艦の10番艦である。 艦名は宵の月、夕方の月の意味〔片桐、362頁〕。 ==艦歴== ===日本時代=== 1941年(昭和16年)度計画(マル急計画)による乙型一等駆逐艦の第363号艦として、浦賀船渠で1943年(昭和18年)8月25日に起工され、1944年(昭和19年)9月25日に進水。1945年(昭和20年)1月31日に竣工し、呉鎮守府籍となった〔遠藤、217頁〕。当初は三菱長崎造船所で建造される予定であったが、線表改訂により浦賀での建造に変更された〔。秋月型駆逐艦のうち浦賀船渠で建造された唯一の艦である。 就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入されるも、瀬戸内海回航用の燃料の確保に時間がかかり〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127900、12頁,18頁〕、回航日は大幅に繰り下げられた。 2月16日、かねて病のため交代を予定されていた初代艦長中尾中佐に代わって、二代目艦長荒木政臣中佐が着任。艦長室での事務引き継ぎ中に空襲警報が出る 〔丸エキストラ「"宵月"防空戦始末」、130頁〕。 横須賀で待機中に硫黄島の戦いの援護で関東地方に空襲を仕掛けてきた第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機と交戦 〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127900、20頁〕。敵機がかなりの低空だったため、四十九門の機銃による対空砲戦を行った。約一時間ほどの対空戦闘で撃墜グラマンF6F2機と報告した。戦闘慨報の決裁を新艦長が行い、旧艦長は退艦した。夕刻、横須賀鎮守府から「明日空襲の際、陸上防空砲台の援護下に入れ」と伝達があり、海軍砲術学校沖へ移動準備をした〔。 2月17日、空襲警報後に砲術学校沖で待機。敵機が長10センチ高角砲の射程内に入ってこなかったため、前日のような戦闘にはならなかった。この日横須賀には宵月の他に爆撃標的艦波勝が在泊していた〔丸エキストラ「"宵月"防空戦始末」、131頁〕。 2月20日、駆逐艦「蔦」とともに横須賀を出港、敵潜水艦を警戒しながら本州南岸を接岸航行し、伊予灘屋代島(周防大島)の安下庄泊地に仮泊する〔。 2月23日には呉に入港し、第十一水雷戦隊へ合流した〔丸エキストラ「"宵月"防空戦始末」、132頁〕。 3月5日からは安下庄を基地として訓練に従事する〔。しかし、3月16日の訓練中に注油ポンプが故障〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127900、45,49,51頁〕。 呉に一時帰投しブイに係留し整備している時に呉軍港空襲を受ける。味方艦を守るため、高角砲による対空射撃を実施、自艦に向かってくる敵機は機銃対空射撃で応戦した。朝から夕方まで断続的に戦闘が続き、昼食は乾パンのみであった。この日の戦闘で高角砲弾の1/3を消費し、損害は至近弾があったのみで外鈑に小孔が空いた程度であった〔。呉海軍工廠でポンプ修理が行われたが復旧せず、当面の行動に支障なしとして修理は打ち切られた〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127900、45,49,51頁〕。 4月7日の坊ノ岬沖海戦には訓練不十分のため参加できず〔、待機部隊第二部隊に編入〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030128000、4頁〕。花月、夏月と共に瀬戸内海西部防空の任に着く。以降、安下庄、八島を泊地として訓練を繰り返したが、訓練用標的機も得られず実戦即訓練という状況であった〔。 5月10日、八島泊地を早朝に出港し呉に向かった。途中、松山沖釣島水道を通って柱島泊地に変針した際に警戒警報が出る。13号電探が四国南方に呉に向かうと思われる敵大編隊を発見した為、対空戦闘のため伊予灘に出た。15センチ高角望遠鏡でB-29を確認し、九四式高射器測距儀で距離を測るが、第一悌団だけでも五十機以上の大編隊であったという。第一悌団へ射撃の弾着は同高度前方で炸裂、その後下方に弾着が移る。その後爆弾を投下されたため蛇行して回避し、第二悌団に射撃を続けたが、編隊下方に弾着。第三悌団以降が東へ迂回して北上するコースを取ったため射程外となった〔丸エキストラ「"宵月"防空戦始末」、133頁〕。5月20日には第十一水雷戦隊から離れ、第四十一駆逐隊に編入される〔丸エキストラ「"宵月"防空戦始末」、134頁〕。5月25日、第四十一駆逐隊は夏月が編入され4隻そろうが、坊ノ岬沖海戦で損傷した涼月、冬月は行動不能であった。その後、海軍総隊はGB第251221番電、GB電令第三十三号により、第四十一駆逐隊を対馬海峡部隊編入とした〔。 6月5日、対馬海峡部隊に合同するため呉を出港、下関海峡を経て鎮海へ向かう航路をとった。しかし15時30分、周防灘姫島灯台の325度5,8km地点で磁気機雷に触雷し、補助機械の一部に損傷を受け片舷航行となった。その後修理のため呉に回航することになり、下関海峡東口の部崎沖に仮泊される。翌6月6日から呉工廠岸壁に係留された〔。 6月29日、係留中にB-29の空襲を受ける。江田島方面から高高度で編隊を組んで左舷に向かってくる敵に対して八門の高角砲で対空射撃を行うが、編隊下方で炸裂。第二波、三波ともに同様の対空戦闘を行った〔。7月1日には呉市街に夜間空襲、B-29による焼夷弾爆撃が行われたが、目標を視認できず対空射撃は実施しなかった〔丸エキストラ「"宵月"防空戦始末」、135頁〕。 7月20日、修理が完了するも〔遠藤、218頁〕、その後は断続的に空襲を受ける。7月23日には小型機の空襲を受け、至近弾破片で初の戦傷者を出す。7月24日の呉軍港空襲では被弾損傷を受け、7月26日に至近弾による外鈑破口の修理を行うため、工廠岸壁に艦尾を横付けした。7月28日には再度呉軍港空襲を受けたが、連日の空襲で弾薬の浪費を慎む指示が出ており、高角砲は有効見込みがあるときのみ使用することにしていたという〔。 8月2日、本土決戦に備えて兵力を温存するため、曳航されて東能美島南端の秀地の窪入江島岸に錨泊。藁縄の網で全艦を覆い、青松葉で擬装を行った。単装機銃は陸揚げされ、丘に機銃座を作り潜伏させている〔。8月6日には警戒警報が鳴り、山上見張りが大型機1機が北上中と報告を行う。宵月は擬装中であり、所在の露呈を防ぐために発砲は行わなかった。その内、広島市街方面に青白い閃光がみえ、泊地でも爆発音が聞こえ、遠くにキノコ雲が見えたという〔。8月15日 に終戦を迎えた。 10月5日除籍。12月1日に特別輸送艦に指定された。復員輸送後は横須賀で特別保管艦として係留され〔、1947年(昭和22年)8月29日に特別輸送艦の指定を解かれた。本艦の残務整理は12月5日に終了した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宵月 (駆逐艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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